経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 1990年には社員の自主性を高めることを目的にCIを導入したが、変革を恐れ、夢を抱こうとしない保守的な体制に変わりはなかった。父の後を継いで4年、満足のいく改革もできないまま、売り上げだけは順調に伸び続ける。「社員は本当は裏で舌を出して笑っているのではないか・・・」と次第に虚しさが募っていった。
 そんな思いの表現の場を求め、社外ボランティア活動に情熱を傾け始める。飢餓撲滅運動への参加を決め、カナダで開催される会議に13人の生徒を連れて行ったのをきっかけに、日本での子ども国際会議開催の実現に向けて奔走した。名もないボランティア団体で資金を募ることは想像以上に困難を極め、無力な自分を思い知らされる。しかし、真剣なまなざしで意見交換する世界各国200人以上の子どもたちの盛大な拍手で会議を終えた瞬間、震えるような感動が身を包んだ。翌年には20人の生徒とインドを訪問する。貧しい世界の現状を目の当たりにして、将来は医師や外交官として何か手助けをしたいと、勉強への向き合い方を変える生徒の姿に、自らの教育論に対する自信は深まっていった。
 そして、野外授業としてキャンプを取り入れることを提案し、幹部たちの反対にひるむことなく単独で企画を立て成功を収めると、石川県の能登島に6万坪の土地を取得し、有機農業やキャンプ場、宿泊所などの本格的な野外体験学習施設の構想を練った。しかし、この壮大な計画を相談者もなく、たった一人で進めるのは難しかった。1992年に学習棟、1995年には研修棟の建設にこぎつけるものの、描いたプランの3分の1も実現できないままだった。
 ふと気がつくと、多くの幹部が定年を迎える時期がきていた。バブルの崩壊とともに少子化も進み、売り上げは急激に落ち込み始めている。理想の教育を実践することに夢中になり、社内に目を向けて組織と対峙することを怠っていた。


 就任直後から始めた採用活動で若手社員は増えていたが、現状維持を最優先する幹部の下で育った彼らが「事なかれ主義」に染まっているのは否めなかった。そんな組織を変えるために100%の力を経営に注ぐことを決め、現場からやり直すということを自らに言い聞かせるように、各教室のトイレ掃除から仕事を始めた。
 1992年に学校週5日制が試験的に導入されてから、個性を尊重できる個別指導のニーズは高まり始めていた。それを機に新教室を展開するなかで若手を現場に配し、権限を与えることで成長を促した。1997年には天体ドームや理科実験設備を備えた教室「知求館ギャラクシー」を開設すると自ら校長に就任し、2年間経営者と現場責任者という2足のわらじを履きながら社員に背中を見せた。
 また、人材開発室を設置すると、教師陣に対しても生徒に向き合う姿勢を問う。授業アンケートを元に、3年後一定の基準を満たさなければ辞めてもらうと宣言した。6割以上の教師が基準を下回る現状で、模擬授業や教育研修会を開催し、自主研究会の組織を促す。「このままでは教師の数が圧倒的に足りなくなる・・・」と頭を抱えながらも、3年で9割が見事に基準をクリアした。同時に新卒採用にもますます力を入れる。就職セミナー「夢の探し方教室」には多くの学生が詰めかけた。
 年に3〜5のペースで教室数を増やした個別教室は京滋から関西にエリアを拡大し、1999年を境に売り上げは上昇に転じていた。ボランティア活動に端を発した貧困に苦しむ子どもたちとの交流や野外授業は社員の手で運営される恒例行事として定着し、好評を博している。「まだまだこれから」と自らを叱咤激励する一方で「それなりのところまで頑張ってきたじゃないか」と囁く自分もいた。打ち込めば打ち込むほど、教育に携わる者としての使命の重さがじわじわと迫ってきていた。



湧き上がる雑念、空腹感や寒さのなかでただ瞑想する。何もないタイの山奥で自らに向き合った2週間。

 そんな2000年のクリスマスに、知人から聞いていたタイの寺院での修行を実行に移した。「世界の人々から尊敬、信頼、愛される人づくりをする」。迷いを断ち、自ら定義したミッションを果たす覚悟を問いただすための儀式だった。
 そうして21世紀を心新たに迎えると、権限委譲を進めフレキシブルな組織を作るためグループ6社体制に分社、さらに自主自律と自己責任を重視した立候補制の人事制度を導入し、組織の活性化を図った。理想を持った若手社員が力をつけ始める。月に100以上あった会議や打ち合わせの参加を10分の1にまで減らし、現場からは事業部の中長期計画や教育3ヵ年計画などの企画書があがってくるようになった。そしてついに昨年、新卒3期生の30代執行役員が誕生した。
 幼い頃、夢を持つこともかなわず、勉強を面白いと感じたことはなかった。「何のために勉強するんや」。その問いかけが就任当時5教場だった会社を72教場のグループ会社に育て上げる原動力だった。そして、今やっと理想とする教育への手ごたえを感じ始めたところだ。焦り、虚しさそして迷いを乗り越え、父の果たし得なかった全人教育の志を継いで、2030年に1000教場の展開を目指す。子どもたちに夢を持つ大切さを説き続けてきた自分が、この夢をあきらめることはできない。


(記載内容は2006年3月時点における情報です)