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佐々木喜一さん

  全人教育をモットーに45歳で「成基学園」を創設した父はまさに努力の人だった。結核を患い、身体に鞭打つようにして学園経営に精力を傾ける父が一人息子にかける期待は大きく、顔を合わせれば「お前は努力が足りん」と説教が始まる。絶対権力者の父に反抗するなどもっての外で、「将来は考古学者になりたい」と言って「それじゃあ食っていけん」と一蹴されてからは夢を持つこともなくなった。「はい、お父様」。一歩外に出ればサッカーに夢中な腕白坊主は、父の前で従順な優等生を演じるようになっていった。
 父の指導で有名私大付属中学に合格すると、後は大学までエスカレーター式。教科書は全て学校のロッカーにしまい込み、授業中はいかに笑いをとるかに全力を注ぐ。持ち前の運動神経で、京都選抜に選ばれるほどの腕前になったサッカーを高1で辞めると、年上の大学生とつるんでディスコ遊びやサーフィンにうつつを抜かした。
 家に帰れば父が居間に腰を据え、5教室から届く300枚以上の日報の返事に深夜2時近くまでかかりきりになっている。「何が楽しいねん。こんなしんどい仕事は嫌や」とげんなりして、「働かんと生きていけたらエエな」と思いながら、父を避けて高校生活を送った。
 「なんかオモロイことないんか」が口癖のような大学時代。その場限りの刹那的な楽しみ方にも飽き飽きしていた。4回生で単身アメリカを放浪したとき、初めて自分の将来を真剣に考えた。生きている証を立てるために早く社会に出ようと、人が変わったように真面目に授業を受け、同時に社会や経済、会社についてのノウハウ本を1000冊以上読んだ。父の取引先の銀行系の大手カード会社に内定し、修行のつもりで社会人への一歩を踏み出した。


  一流大学を出た社員ばかり集まる、年商3000億円の財閥系カード会社。口を開けば人の批評ばかりの上司や、勤務中に散髪に行く先輩に失望した。「余分に働いても給料は一緒やで」。そんな同僚の言葉を尻目に、1000名の営業コンクールでトップの座に上り詰めるのに半年とかからなかった。「一流大学出てこれじゃ、何の意味もないわ。オヤジの塾はこんな人間を大量生産しとるんか?」。日に日に募る思いから生まれる学園の改革案がノート3冊分に及んだ頃、ついに辞表を叩きつけた。入社から1年半が経っていた。
 “本物の人間育成”というビジョンを胸に25歳で学園経営に加わると、150に上る改革を性急に実行した。60代後半を迎えた父は一線を退き、真夜中過ぎまでデスクから離れない息子の姿を満足げに見守っていたが、改革が経営の深部にまで及ぶと頻繁に口出しするようになる。指示はたびたび覆され現場は混乱、親子の間もギクシャクし始めた。父は苛立ちから家族に当たった。特に母に対しては日に日に声を荒げることが増えてゆく。
 「お前のしつけがなっとらんからこんなバカ息子になったんや!」。ある日父が吐いた母への暴言に、気がつけば拳が飛んでいた。初めての息子の反抗に驚きを隠せない父を置いて家を出る。2年間、学園の発展のために打ち込んだという自負があった。27歳、未練はひとかけらも持たなかった。


理事長に就任直後から直接子どもたちに語りかける場を持ちたい
理事長に就任直後から、直接子どもたちに語りかける場を持ちたいと教室に足を運び続ける。

 父との絶縁を宣言し、六畳一間のアパートに住んで本気になれる仕事を探した。東京で成功し、関西進出を図る「チケットぴあ」の関西創設メンバーとして入社すると、現場に任せてくれる社風のなかで月200時間にも及ぶ残業をこなした。毎週途切れることなく届く父からの手紙に「いつかは向き合って話そう」と心の片隅では思うものの、だんだんと封を開けることも稀になっていく。仕事に夢中になりあっという間の2年。そんなある日突然、父の訃報が届いた。
 和解せぬまま、2年ぶりに対面する無言の父の枕元で、ただ親不孝を詫びることしかできない。学園設立の決意を記した趣意書を繰り返し読むうちに、全人教育を目指し志半ばに倒れた父の無念が胸に迫った。両肩にのしかかる名門塾の重みを感じながら、29歳で2代目理事長への就任を決意する。偉大なカリスマ性を誇った父の死から2ヵ月で既に1割の生徒が退園していた。
 就任まもなく経営方針を発表し、給与等労働条件の改善を行う。20〜40代の男性社員が5名しかいない現状に危機感を覚え、新卒採用も始めた。早急に体制を整え、本当の意味で子どもの成長をサポートできる塾を目指そうと意気に燃えていた。
 時代は1980年代後半を迎え、団塊ジュニア世代の通塾で経営は安定化している。その一方で“塾漬け”や“オタク”が社会問題となり、教育のあり方が問われていた。そんな時代を背景に、授業についていけず落ちこぼれていく生徒に対する個別指導の導入を提案すると、幹部会で全員に反対された。「一斉指導だけで手一杯です。個別指導は小さな塾に任せておけばよいでしょう」の声に、父が志のもとに築き上げた組織の現実を見た思いだった。幹部たちの姿勢に口惜しさを感じながら強気で舵を取った1989年、別組織で細々と個別指導教室をスタートさせた。


(記載内容は2006年3月時点における情報です)