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 やがて、バブル景気にも後押しされてベテラン社員はどんどん受注を決め、売上は年々増加する。ただ、自ら口説いて採用した若手のほとんどは遅刻やミスを繰り返して実績が上がらない。しかし、どう指導すればよいのかもわからずに放任して、多くの若手が肩を落として去って行くのを黙って見送った。
 そして、35歳で社長に就任した1990年に年商が過去最高の15億円に上ったのを最後に、大手メーカーが設備投資を控え始め、バブル崩壊と共に受注量は一気に落ち込んだ。それでも「いずれ景気は回復する」と父の代から築き上げてきた信用で銀行から運転資金を借り、経費圧縮で乗り切る2年間。
 しかし、就任3年目に年商が10億円にまで下がると、ようやく焦りが込み上げた。多くの大手取引先が生産拠点を移すマレーシアやシンガポールに単身視察に訪れたが、既に入り込む余地もない。それでも何とか商機を見出そうと飛び回り続けると、巨大家電メーカーの中国への進出情報が舞い込んだ。
 帰国後すぐにプロジェクト本部に向かい、更に工場もまだ建っていない中国にも足を運んで代表取締役と書かれた名刺をきり、「私に工場の設備を任せてください」と訴えた。そして1994年に広州事務所を開設し、たった一人で中国と日本を往復して安定した大きな取引を得てやっと業績を回復させた。


 しかし同時に、長年大手メーカーとの取引をつなぎ留めていたベテラン社員たちが定年退職を迎えて行く。若手にはまだ任せ切れず、引継ぎのたびに自ら得意先を回りながら、人材育成の必要性をひしひしと感じた。社内でも電話やクレーム時の雑な対応が目に付き、ことあるごとに注意を促す。「商社はサービス業。電話一本が売上につながるんや!」と時に怒鳴り声を上げた。
 「可能性がある」と見込んだ社員が会社を去って行く。「また言い過ぎてしまった…」。かつての父のように従業員を叱り飛ばしては自己嫌悪に陥り、「明日はあいつは来ないかもしれんなあ…」と眠れない夜を何度も過ごす。
 そんな40代のある日、高校の部活で太刀打ちできなかった強豪校を率いていた先生の指導法が頭をよぎった。猛烈な練習を強いる一方で、「君はバネがあるからこんな練習をしろ」「体の柔らかさを生かした選手を目指せ」と、常に一人ひとりの選手の良いところを褒めてヤル気を引き出していた先生。
 「俺はそんな指導で本気になったんや…」。今までは一方的に自分ができたやり方を押し付けるだけで意欲を引き出す努力を怠っていたと気づいた。
 ひと回り以上年下の社員たちの輪に自ら入り、失敗をしても怒鳴りたい気持ちを抑えて「間違ってもいいから心を込めた仕事をしよう」と明るく伝えて行く。顧客から「対応が気持ちがいい」と言われた社員を全員の前で心の底からねぎらい、クレームがあれば「これはチャンス。困っている時に親身になってこそ頼りにされるんやで」と、夜中でも得意先に駆け付けさせた。自らの経験を交え、不満顔の社員が納得するまで辛抱強く語り続けた5年間。



新入社員と参加した同業組合主催の『歩こう会』。この距離感の近さを大切に、人材育成に力を注ぐ。

 次第に顧客に感謝される喜びを知った若手に、更に「電話応対No.1」「クレーム対応No.1」と個性に合わせた目標を持たせると、それぞれが意欲を高めて実績を上げて行く。「この不況に何で伸びるんや」と不思議がる経営者仲間に、「俺のやり方で会社が伸び始めた。社員の成長の証や」と誇らしい。ついに30名を越えた社員と共に2000年には36億円を売り上げた。
 2年後にIT産業が極端な落ち込みを見せても、フィリピンや上海に新しく子会社を構えて力をつけた若手に任せることができ、幅広いメーカーと提携して自社ブランドの会社も立ち上げて難なく乗り切る。入社3年目の社員を鹿児島営業所の所長に抜擢し、30代の取締役も誕生した。「日本食を食べたい」という海外駐在の取引先の声を社員が拾って飲食店への進出もした。
 そして、各拠点に足を運ぶだけではなく日報を全社員で共有し、毎日のメールのやり取りを欠かさずにコミュニケーションを深めて行く。社員から相談を持ちかけられれば、夜中に飛び起きてその解決策を手紙につづることもある。
 目標に向かってひとり黙々と取り組み、実績を残して周囲を納得させるだけではなく、苦手だった人の育成にも本気になって20〜30代を中核とした底力のある組織を作り上げた。専務時代に採用して今は子会社社長になった40代の仲間たち。これからは彼らを手本に若手社員たちに考える力をつけてもらい、新規事業などをどんどん任せて行きたい。「人間力世界一の会社」という新たな目標を掲げ、組織を牽引するリーダーとしての挑戦にますます意欲を燃やしている。


(記載内容は2006年11月時点における情報です)