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網田社長海外催事写真
ようやくLED照明の受注が入り始めた頃の小さな事務所。一番左奥が米田社長で当時の従業員と。

 そんな切羽詰まった1993年の年末に、初めて出展した展示会で、ある経営者から、「これからはLEDだよ」とアドバイスをもらった。時同じくして、一行広告を載せていた電話帳を見た会社から「画像処理の照明に困っている」と電話が入り、それをLEDで解決しようと取り組み始めた。その年明け、画像処理装置の売り込みに訪れたオムロンの営業が言った。「このLED照明は使えるかもしれない」。
 3ヵ月後にはその営業の顧客から次々と注文が舞い込んだ。それを納品するたびに手作りのカタログの中に新製品としてラインナップに加えていく。また、同時期に元同僚がFA機械の開発案件を持ち込んでくれて、1994年末には一気に黒字化した。
 小さな雑居ビルの10畳ほどの事務所は7人が入るともう満杯で、みんなで床の上に座り込んで部品のハンダ付けをした。給料日までに顧客からの入金が間に合わず、その調達に苦労した。信用がなくてなかなか融資をしてくれない銀行で、応接テーブルいっぱいにLED照明を並べては、懸命に事業の将来性を訴え続けた。
 折りしも青色と白色のLEDが日亜化学にて開発され、それを使ったLED照明で顧客ニーズが広がっていく。2億円だった売上高が翌年には4億円まで伸びる倍々ゲーム。明治維新の志士たちが活躍した京都御所に憧れていて、そこに近づくようにして広い事務所に移転すると、そのフロアの大きさに見合った大きな受注が入ってきた。


 夕方になると、営業が顧客の要望や案件を持って米田の机の前に列を作った。翌朝までにその案件の構想図を作成して、営業に顧客のもとに駆けつけさせると、その迅速さにますます顧客の評判が上がっていった6年間。いつしか社員数は100人近くになり、アメリカにも拠点を出して2000年の利益は3億円にのぼった。ただそれでも、1万円以上の経費についてはすべて自分で決済していた。
 しかし、コンピューターの2000年問題が収束すると、需要は突然落ち込み、電子部品・半導体市場は急速に冷え込んで月々の売上が激減した。「予測はしていたが、落ち込みが急すぎる…」。懸命に業務フローなどを改善して経費削減を進めても、それを上回るスピードで悪化していく業績。銀行からの借り入れももう見込めない。
 「駄目だ、間に合わない。ソフトランディングは無理なのか。しかし、これまで支えてくれた人たちを路頭には迷わせたくない」と、決断できない2ヵ月が続いて、ふと我に返った。「いったい私は何をしたかったのだ? 会社を発展させて人の役に立とうとしたのに、自分の仲間のことも信頼していないじゃないか…。リーダーとしての新しい一歩を踏み出すために、すべての非難を受け入れよう」と腹を決めた。


 自らの報酬を大幅に減らしてリストラを敢行した。30人の希望退職者募集。社員の泣き声や「社長の責任じゃないか」という非難が数多く耳に入ってきた。
 その一方で、個人商店から脱却して組織として業務が進むように、責任ある仕事を部下に任せていった。大胆な権限委譲。「会社に変革を起こすには、まずは私こそがイノベーションしなければ…」と自分に言い聞かせた。
 「流れ作業」だった製造工程を、一人ひとりが完成品までを担当する「セル生産方式」に変えると、生産効率が目を見張るほどに上がる。月に10件もなかった業務改善提案は50件を越えて提出されるようになっていく。そして、2002年には業績はV字型に急回復を見せ、2004年6月にはついにJASDAQに株式上場を果たした。
 社内のあちらこちらで真剣で遠慮のない議論が繰り広げられている。組織に自発性が強く芽生えて、医療分野などへの新規事業にも手応えが出てきた。2005年には植物育成実験プラントが千葉で稼動した。幼少期より自然に興味を持ち、高校生の頃から意識した環境問題。植物工場による農業への進出は「京都発・光の世界企業」「1兆円企業」への夢の架け橋でもある。いつか京セラに追いつき、追い越すことで稲盛さんに恩返しがしたい。
 CCS―クリエイティブ・カスタマー・サティスファクション。社是にある「お客様に愛と感謝」の精神で世のため人のために役立つことで、一人ひとりの働く喜びが満たされていく。そんな企業文化の確立に向けて、竜馬のような大きな志を胸に挑戦は続く。


(記載内容は2006年3月時点における情報です)