経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


木下博史さん

 友人も多く、車のプラモデルなどに夢中な子ども時代。商売人の多い西陣で、ハワイに旅行をする裕福な友人を見て育った。染物業を営み、派手に散財した祖父に「商売は、金が稼げておもしろいことができるぞ」と聞かされて、卒業文集には「立身出世する」と書いた。一方、百貨店勤めの父は洒落たスーツ姿がカッコ良く、不二家のレストランに連れて行ってもらえるのが嬉しかった。
 中学ではテニスの部活に励み、主将として他校に試合を申し込んでは交流を広げた。経営者を父に持つ友人宅に遊びに行って高級外車に憧れる反面、自分の家はローンで生活が苦しくなり、雨漏りの修理すらままならなくなった。
 高校時代は、金持ちから不良まで幅広い友人と交流するだけでなく、カレー専門店のアルバイトで稼いだ金で流行の洋服を買い、繁華街の喫茶店に出入りして楽しんだ。同じ頃、勤務先が買収されて花形部署から裏方へ異動になった父。給料が下がってスーツを新調することもなくなり、働く意欲を失って見えた。「僕はお金を稼ぐためにも自分のやりたいことで商売をしよう」と思った。
 友人宅で手作りしたサンドイッチが喜ばれたことが忘れられず、将来の夢は喫茶店経営。華やかな東京に憧れながらも金銭面で父の反対にあって、地元の調理専門学校に進学した。「25歳までに独立する」と目標を決めて1年間を夢中に過ごすと、成績優秀者として国際会議場のコックに推薦で19歳で就職した。
 皿や鍋を磨くばかりでも、修行だと思って地道に働く毎日。しかし、3ヵ月後に交通事故を起こして腕に怪我を負い、母にまでついてきてもらって上司の家に謝罪に行ったが職を失った。出鼻をくじかれて落ち込む3ヵ月を経て、友人のツテで河原町のファッションビルの喫茶店でアルバイトを始めた。


 他のテナントの従業員やオーナーに可愛がられて、木屋町のバーや先斗町の居酒屋などに連れて行ってもらって世界が広がる充実した日々。あるとき、来店客が買ってきた服を褒めると喜んでもらえることに気づいた。その後は、「野球の結果は押さえておこう」と新聞を読み始めたり、常連客の注文を懸命に記憶したりして、何が喜ばれるのかを試しては接客の面白さを味わう。そんな相手の立場に立った接客が受けて、更に人脈が広がっていく2年間を過ごした。
 そして、そろそろ経営を勉強したいと感じ始めたとき、常連客の焼肉店オーナーに「ウチで独立修行しない?」と誘われた。せっかくできた人脈がもったいなく感じながらも転職し、スタッフのマネジメントや売上管理まで任された。
 喫茶店時代の常連客に「何でこんな地味な店にいるの?」と言われても黙々と店舗運営を学び、遊び感覚のアルバイトを厳しく指導する1年間。次第に自分目当ての客が増えて「この人脈を大事にしよう」と腹を括り、念願の車の購入も我慢して23歳から給料の半分の5万円を貯金して4年で240万円を作った。
 「喫茶店よりも、接客を通してもっとお客様に愛されそうな和食居酒屋でいこう」と決めて物件を探し始めるが、資金不足で憧れの木屋町には到底手が届かない。西賀茂の住宅地で手を打つと同時に、父を説得してオープン1ヵ月前にようやく保証人になってもらい、国民金融公庫から300万円を借り入れた。知人の居酒屋で1ヵ月間だけ修行して、「3年後にはまんざらでもない店に成長していたいな」と願って名づけた「まんざら亭」を27歳のとき一人で始めた。


開業して間もなくお祝いに駆けつけてくれた友人の子どもと一緒に
開業して間もなく、お祝いに駆けつけてくれた友人の子どもと一緒に。20席の店を一人で切り盛りした。

 多くの知人が駆けつけてくれて好調なスタートを切るが、ロクな料理も作れずに次第に客足は遠のいて、半年後には月間売上が50万円にまで落ち込んだ。
 余った食材でフレンチの調理法を取り入れた和食メニューを試したりして、料理の腕を磨くしかない日々。そして、ついに自宅の家賃が払えなくなり、立て替えてくれた友人が美容師として月30万円も稼ぐ姿を見て、「店をたたんで俺も同じ道に進もうか…」と気弱になる。それでも、クリスマスで賑わう街を横目に、「店に来てください」とコツコツと1000枚もの年賀状に手書きした。
 すると、正月から少しずつ客が増え始めて、初めて雇った社員と2人で試行錯誤した創作料理も好評を呼び、口コミで一気に繁盛し始めた。1年後には月の売上が黒字になり、「次は東京で一旗あげるぞ!」とスタッフたちに夢を語った。
 独立から2年後、世間はバブル経済に沸き始めて、銀行は2000万円もの金をあっさり貸してくれ、本店の隣に出した2店目はいきなり繁盛した。その翌年には「大きな組織にしたいわけじゃないけど、会社にした方が勉強になる」と考えて法人化。更に次の年には、5000万円を借り入れて念願の木屋町に3店目をオープンすると、すぐに月に500万円以上も売り上げる人気店になった。
 それでも、流行りのジェットスキーの購入を我慢して、利益の多くは次の夢の準備のために会社の貯蓄にまわした。一方では、ホテル並みの接客を目指して、ときには手をあげてまでスタッフの育成にも励んだ。「女性の靴は手前においてあげたら親切なんや」「取り皿はこまめに換えんと、違う料理の味が混ざるやろ?」。そんな気を配った接客を懸命に理解させ、楽しくて洒落た雰囲気作りも功を奏して「この店で働きたいんです」と言う客が後を絶たなかった。


(記載内容は2006年7月時点における情報です)