経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 30歳で結婚。高校教師だった妻は身重の体で教鞭をとって応援してくれる。何より仕事を優先して家族そろって旅行に行く機会もなかなか持てない。夏期講習の時期には朝9時から夜10時まで12コマ通しの授業を持ち、増える子どもや親たちの喜びの声にやりがいを感じながら、休日も睡眠も削って次々と目の前に現れる仕事にひたすら没頭した。
 ただ、団塊ジュニアが小中学生となり安定成長が見通せた1985年には、値上がりが見込める駅前などの物件を購入して更に2校を開校しても、「土地を持っていれば万が一の時も安心や」と教育事業に対する明確なビジョンはなかった。
 マニュアルを作らず「塾は教室長の魅力で生徒数が増えるもの」と各校の運営は社員に一任した。すると一流企業のサラリーマンや個性豊かな教職経験者が「ここなら雇われ感覚を持たずに能力を活かせる」と安定を捨てて入社して講師の層が厚くなる。自ら統括する伊勢田校は生徒数が400名を越え、バブル景気が始まる1989年からは物件を次々と購入し、教室展開の勢いを増した。社員に活躍のステージを与えられることに喜びを感じたが、確固たる将来像を描いての拡大ではなかった。
 社員は独自の工夫で各校を運営し、毎晩のように一緒に飲んでは教育論をぶつけ合った。「休み時間は生徒に話しかけろ」「帰るときの子どもの顔色で授業の良し悪しがわかる」と発破をかけ、毎年の報酬は一対一で話し合って決めた。社員たちが各校を200人規模に導くのを頼もしく感じつつ、自らのやり方に確信を持った。やがて全ての教室が黒字化して40歳の創業13年目で法人化した。


 ところが翌年にはついにバブルが崩壊して、大きな借入れを抱えたまま地価はみるみる下がっていく。「教育事業が順調だからこそ銀行も信用してくれる」と思いつつも危機感が募る。かつてから懸念していた少子化も現実となりつつあった。初めて本部組織を設け、それぞれ自由に運営していた各校をブロック別に統括。コンサルティング会社に任せきって、大手企業を参考に年齢給・終身雇用を前提とした給与規定を完備した。
 同時に大手予備校のフランチャイズとして大学受験予備校を一気に3校開校し、更に個別指導や小学受験と矢継ぎ早に事業を拡大する。毎年の収入と土地の売却損を相殺し、見事な手腕で危機を乗りきった。いつの間にか教室数は25を超え、多忙を極める経営に専念するために47歳で教壇を降りた。
 ターゲット層を拡大し、面の展開を図る大手塾に負けじと、1999年からは年間3〜5校のペースで教室を増やした。そして2000年には将来の多角経営を念頭にブランド名を「立志館進学教室」から「りす・コミュニティ」へと変更。ただ、教室数に見合う社員を確保するためには「御社の安定性が魅力です」と今までは考えられなかった動機の応募者も採用せざるを得なかった。
 次第に社内で語り合う機会も減り、社員の中には自分の都合を優先して休暇を取り、ただ授業をこなすだけの講師も増えてくる。クレームが現場から上がって来なくなり、しばしば対応が後手に回る。各校を統括するブロック長を組織的に機能させることができず、遅刻した講師を注意できない教室長や「アルバイトの非常勤講師に戻して欲しい」と訴える社員に何度も首をかしげた。



受験生の夏期集中講座にて。教育者として、また経営者として、生徒にも社員にも本気で向き合う。

 「自立した働き方で塾を運営したいのではないのか?」「生徒を伸ばす喜びの中で自然とやるべきことが見えるはずや」。社員たちが懸命に目の前のことに取り組めないことに苛立ちが募る。以前のように教室長や講師の魅力で生徒を集められず、思うように上がらない売上に頭を抱えた5年間。
 「自分が人を育てなければ会社の未来はないのか…」とは思えても腹を決められない。ただ、かつて導入した大手企業を参考にした給与規定は、社員の自立を阻害するものに他ならないように感じた。半年の間たった一人で熟考を重ねた2003年、ついに年功序列を廃して個々人の実績が報酬に直結する成果主義と自立を促すフラット組織の導入を宣言した。若手は意欲を高めたものの、新しい仕組みに馴染めなかった40代の優秀な幹部たちが、何人か会社を去った。
 同時に「夢や目標を持たず頑張り続けることはできない」と気づき、社員たちに夢を語って来なかった自分に愕然とした。そして、自由に任せるだけではなく常に密なコミュニケーションを図り、更に組織的に個人の成長をフォローできる仕組みづくりにまい進する。思いを伝えるために何度でも社員に語りかけ、ベテラン勢に加え頭角を現した20〜30代の若手を事業部の統括責任者をはじめ各ブロック長に抜擢して、2週間ごとの情報共有会議を軸に各部門で日々ミーティングの場を設け、夢を実現するための目標達成スキルの向上に力を注ぐ。
 「技術を活かし、自由に生きたい」と創業した塾。懸命に目の前のことに取り組み大きな成果を上げながらも、明確な夢を描いて突き進んではいなかった。そして、拡大する組織の中で社員が夢や目標を見出せずにいると気づいた時、ついに自らの責任で「社員たちが夢を描ける会社に変えて行く」と覚悟を決めた。これから先、社員の自己実現を応援し、50校を超えた全ての教室に後継者を育てるという大仕事に全力で取り組んで行く。


(記載内容は2006年9月時点における情報です)