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滝下信夫さん

 父の引くリヤカーに乗り、破産した家などの古家具の買い取りについて行った幼少期。商品が山と積まれた雨漏りのする18坪の店内で、両親を手伝って子どもなりに懸命に接客した。しかし、近所の子どもたちに「のぶちゃんちは汚いなあ」と馬鹿にされて古物商という家業が恥ずかしい。人の集まるところを避け、やがて習い事にも行かなくなって、店の奥でひとり紙相撲で遊んだ。優勝力士やマラソンのヒーローに憧れ、小5で剣道にはまって黙々と練習を積んだ。
 露天商から店を開いて「いつかは表で堂々と商売したい」とことあるごとに言っていた父は、中2の時に店舗を改装して家具店に商売替えした。いじめられることも減って、友人たちと外で遊ぶことも増えたが、配達で呼び戻されるのが格好悪くて「商売人は嫌や」とサラリーマンの家庭に憧れた。
 高校に進学すると、流行のアイビールックに革靴でバイク通学する金持ちの同級生がうらやましく感じた。剣道には打ち込むものの、彼らと一緒に繁華街で遊ぶためにアルバイトに精を出した。勉強はそっちのけで成績は下がり続ける一方なのに、女の子に見栄を張って一流大学ばかりを受験して全敗した。
 予備校代で親に負担をかけたくなくて浪人をあきらめ、同級生のほとんどが大学へ進む中で劣等感を覚えながら高校を卒業。将来の展望など全く見出せず、「2〜3年修行して来い」と父の言うままに、大阪の家具店で住み込みで働き始めた。


 倉庫の2階の一畳間に寝起きして配達と接客の日々。高額な家具を世間話の延長で売り込む大阪商人に圧倒されたが、「愛想が良い」と来店客に気に入られ、「これは天職や」と風邪をひいても休まず働いた。それでもやはり配達中に見かける大学生たちがうらやましい。週1回だけ貰える休みには朝から晩まで難波や新世界をうろついて、知り合った人たちと気の向くまま競艇に通った。
 21歳で家に戻ってすぐ、58歳を迎えた父が「店をお前の好きにせい」と言った。早速自ら天井のペンキを塗り替え、照明も交換して「店を繁盛させるんや!」と張り切った。しかし、しょせん18坪の広さでは置ける商品が限られる。5階建て600坪はあった大阪の修行先の店や、景気に乗って拡張する京都の家具屋街の店に太刀打ちもできず、半年後にはすっかりやる気をなくしていた。
 昼まで寝ても両親が店を開けて、配達に出ればパチンコ店で油を売った。店の奥で一日中テレビを見ていても固定客のお陰で年商は600万円ほどあり、親子3人が十分に食っていけた。来店客には熱心に対応しても商売への目標は見出せず、親の目を盗んで競艇通いの日々。そこには、勝負でなけなしの給料を失い、「裏情報や」と詐欺師の手練手管で生活費までだまし取られても、またどこからか金を工面して現れる人たちが群れ集っていた。
 人間の本性や弱さ、強さがさらけ出される競艇場が居心地良く、いつの間にか月の半分は入り浸り、店の金にまで手をつけて仕事では味わえない勝負の血の引くような快感に酔った。少年時代から続ける剣道の黙想時に「もうギャンブルはやめるんや…」と何度も言い聞かせても3ヵ月と我慢できなかった。


18坪だけの小さな店舗
30歳、店の前の通りにて。商売に夢や志はなく、5年後に法人化するとは思いもよらなかった。

 26歳で結婚し3人の子どもに恵まれて、気の向くままに家族で全国に旅行した。経済は安定成長し、大型化したスーパーが家具を扱い始めても、昔からの顧客に加えて近隣に下宿する学生に食器棚やテレビ台等が季節ごとに売れた。
 一方、友人に誘われ興味本位で参加した中小企業経営者の交流会で、「外車を乗り回すボンボンには負けたくない」と刺激された。他の家具店と共同で作ったチラシを撒くと新規顧客が増えて、相変わらず時間を作っては競艇に通う日々でも商売への興味が高まった。そして年商が8000万円に達した35歳で父に背中を押され、売上と同額の借入れをして本店を5階建て60坪に拡張した。
 同時に法人化して名刺に代表取締役の肩書きを入れ、思いがけず人を雇って初めて経営者の責任を感じた。業界交流会に足を運び、自店の商売規模の小ささを思い知って仕入先も開拓。バブル景気を追い風に、店は日に日に繁盛した。
 満足に商品の置けない店の狭さをカバーするために、カタログ片手に必死で接客して1シーズンで1000台の学習机を売った。社員と2人で重い家具を一日20軒も配達し、腰を痛めて年に2回は寝込んだが、3年経つと「たった60坪で2億円を売り上げる店」と業界で注目された。「小さい店で頑張ってますなあ」と皮肉を言われて「なめられてたまるか」と奮起し、チラシに「目指せ100店舗」を謳って、知名度を高めようとテレビショッピングに出演した。
 高級感溢れる欧風家具や500万円を超える桐タンスをはじめ、数十万円の婚礼家具が月に4〜5セットは売れ、翌年には売上3億円に達した。京都・十条にあった倉庫を改装して2店舗目をオープンすると、社員も4名に増やしてますます波に乗った。


(記載内容は2006年8月時点における情報です)