経営者の生き方から自分を活かす働き方発見・学びサイト「CEO-KYOTO」


 そうして迎えた1988年の42歳のときについに意を決して父に言った。「もうそろそろ身を引いてくれへんか?」。 既に息子の力量を認めて銀行づき合いに終始していた父はあっさりと社長の座と代表権を手放して、逆に猛烈な責任感が襲ってきた。100人を超えていた従業員を見て、「こんなに人を抱えてしまっていたんか…。もう後ろに人はおらんのや」と、自分への不安も高まってくる。モノの見方・考え方を学ぶために、徳川家康などのリーダーたちの書物を猛然と読み漁った。
 バブルのなかでも社長就任パーティーも開かず、一人100万円もする経営者研修に10人近い中間管理職を送り込む。同時に毎年数百万円をかけて本格的に大学新卒生を採用して、ことあるごとに将来の夢を彼らに熱く語り続けた。
 拡大こそ安定とばかりに、アメリカに拠点を出して市場リサーチも始めた。若かりし頃の渡米で、その巨大なビルや車、そして街そのものに圧倒されて、「いつかこの国で勝負したい」と思っていた。しかし、現地の展示会でアメリカのメーカーと商談を始めると、既に生産の主力をアジアに置いていた現地の競合会社に値段でまったく歯が立たない。2億円の史上最高益を出してさらに成長を続けていたなかで、かすかな不安が心をよぎった。


業界初の中国での現地生産
業界初の中国での現地生産で、自分たちでノウハウを積み上げていくしかなかった。

 2年後にバブルが崩壊した。京都発のアパレルベンチャーとして全国に名を馳せた知人の会社も倒産、極端な価格破壊が日本のアパレル業界を襲ってメーカーは次々と海外に生産拠点を移していく。「外国の同業者に商売を全部もっていかれる」と恐怖が体を走った。
 しかし、どの国に進出すればいいのかすらわからない。物流や商慣習、各国ごとの労働への意識…。国内産地の職人たちからは、「中村さんに海外に出られたらもう食べて行けん」と何度も泣きつかれた。かつて海外から最新設備を導入するたびに「伝統産業をつぶす気か!」と非難されたすべての矢面に、父が立ってくれていたことを初めて知った。ようやくこぎつけた契約を調印直前で断念することを3度も重ね、決断までに3年間を費やした。
 ついに2億円を投じてタイと上海に工場を竣工。できるかぎり多くの国内の職人にも手伝ってもらって生産を開始した。「準備はやり切った。成功するしかない。もう後には引けんのや」と自分に言い聞かせる。しかし、「あれは失敗するで」と国内同業者が陰で噂したとおり、現地での受注はなかなか入ってこなかった。工場横の事務所での接客中に壁の向こうの機械の音が止むと、「もう今日の生産予定がないのか? いつになったら動き出すんや…」と気になって商談も耳に入らない。「判断を間違えたのか…」と胃が痛み、眠れない日々が続いた。


 海外工場の立ち上げに苦悩する間に、国内を任せていた役員が派閥作りを始めて、板挟みになった中堅社員たちの退職も相次いだ。少しずつ現場の中核になり始めていた大卒社員たちに賭けて、国内の新たな組織体制を作ることにもパワーを取られていた1997年に、あるアパレルメーカーが海外工場の視察に訪れた。数年前にその会社が新ブランドを立ち上げる際に、ロゴデザインを含めたトータルコーディネートを手掛けた実績があった。急速な店舗拡大に向けて、デザイン性の高い商品を低価格で加工できる工場を探しているという。その要求レベルに見事に応えて大量発注が舞い込んだ2年後に日本中でフリースが大ブレイクした。そのメーカーこそがユニクロ。海外生産は完全に採算に乗っていった。
 その後も8年の歳月をかけて8億円近くを投じて広州や青島に工場を建設した。売上の海外比率は60%を上回り、社長就任時に10億円だった売上は70億円規模にまで拡大した。
 父との男の勝負に勝つために常に顧客や技術の変化に注視して、次の時代を睨んで他社に先駆けて手を打ってそれらを数年後に結実させてきた。一度きりの人生、自分の思うように生きていきたい。しかし、そのわがままを押し通すときに初めて大きな責任を実感して巨大な壁が見えてくる。それにひるむか、リスクを覚悟で勝負に挑むのかの二者択一。会社の将来デザインに共感する社員という仲間たちの力を借りて、これからも挑戦が続く。


(記載内容は2006年2月時点における情報です)