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立木貞昭さん

 小学校の頃は、多くの子どもたちを率いて遊び回る暴れん坊で、算数の問題集を誰が早く終わらせるかを競争する負けず嫌い。家では大きな労組の幹部を務めた父が、叔父の選挙出馬の話や労働運動の相談に乗る姿をいつも見ていた。
 中学でも数人の不良に一人で立ち向かい、先生から1年のときに生徒会長に推される正義漢。それは固辞して野球に夢中になり、不動の4番バッターとして部を近畿大会へも導くが、ワンマンのような自分の存在への周囲からの反発を少し感じ始めていた。「俺は大学を出よう」と人気の工業系ではなく普通高校に進学。ただ、学力があっても家計が許さず就職して行く級友たちのことが気にかかった。
石油化学産業の全盛期。高校では野球部にも入らず、化学クラブに入ってみたが興味は高まらない。級友たちの安保議論に参加したり、家で新聞の隅々までに目を通して社会や経済を学ぶ日々。そして、政府の強引な安保締結手法や政治汚職、労働者から搾取する資本家などに憤りを感じ、「将来は政治家になる!」と志した。ただ、注目する政治家にならって政治学ではなく経済学部を選んで大学進学した。
家庭教師を4年間続け、地域の少年補導の役をもらって活動しながら、政治家志望が集まる弁論部では1年の冬に部長に就任。そして、発展途上国の貧困問題などの様々な議論を戦わせて周囲の学生を納得させて行くと、やがて関西全大学の弁論部を統括する委員長にも就く。全国の大学と交流を重ね、各大学の学生をも組織化して大物政治家などを招いた数々の討論会などを成功させた。
しかし、4回生になってOBとして部の活動に助言をすると、「現執行部をないがしろにするような指示をしないで欲しい」と後輩たちから詰め寄られた。「みんなに良かれと思ったのに、俺のやり方は強引過ぎるのか…」とショックを受けた。


 卒業を控えて政治への熱意は衰えない中でも、ある政治家から「社会経験して来い」と紹介された京都の大手食品商社に入社。大学での活躍を評価してくれた社長に重用され、ある食材の世界での商権を握る人物との交渉を任されたり、たった一人でバンコクの駐在員として赴くなど夢中で働く3年間。バンコクでは路上で物を乞い、伝染病治療も受けられない子どもたちを目の当たりにして心を痛めた。
 「そろそろ政治活動に専念したい」と出した辞表は、社長から「家族という責任を背負った上でないと辞めさせん!」と言われて撤回し、黎明期のコンピューターの導入に自ら携わった後、スポーツ施設運営子会社で役員に就任した。
 しかし、地方都市の郊外の6つのボーリング場はブームが完全に過ぎ去っていて開店休業状態。人気のない敷地内で無理に明るく振る舞ってもついに閉鎖が決まると、地元採用のためにグループ企業へ転勤もできない社員を解雇せざるを得なくなる。「労働者を守るために、ビジネスは時流に乗らなければ」と痛感した。
 29歳で結婚をして翌年長女が産まれると、「機は熟した」と役員としての破格の高給を投げ打って6年勤めた会社を後にした。全国の様々な人に話を聞きに回って4年後の京都府議会選までの収入源となる仕事を模索する。そんな中である知人が子どもの塾代が高いと嘆くのを聞いた。オイルショック後、日本企業は大卒採用に力を入れ始め、親たちには教育熱が高まっていた。学生時代の家庭教師や地域活動で子どもたちが喜ぶ姿を思い出し、「塾なら日中は選挙運動もできる!」と、中古の机や椅子をかき集めて、ある選挙事務所跡の小さな部屋で教室を開いた。


塾を開いて2年目の授業中
塾を開いて2年目の授業中。一人ひとりの子どもを今でも覚えているほど熱心に指導した。

 街中にチラシを撒き、立て看板を掲げると夏休みには170人もの生徒が集まるが、学校が始まると半分に減り、受験が近づくにつれて退塾者が出て月々の授業料収入は減って行く。「これでやっていけるのか…?」と不安を感じながらも、朝9時から夜9時まで付きっ切りで問題を解かせて一人ずつに丁寧に指導して行く。するとその熱心さが評判になって4月には入塾者が増えて胸をなでおろした。
 選挙活動では「若い世代の会」を結成して多くの意見を集め、地場産業の保護や地域による公共財格差、高齢者への福祉の充実などと同時に、学びたい子どもが誰でも教育を受けられる施策を訴えた。同級生を始めとした友人・知人たちを組織化して、若さを武器に街頭演説を繰り返し、滋賀でスイカが余っていると知るとトラックで駆けつけて地域に配るなど金のかからない運動を地道に続けた4年間。しかし、35歳で迎えた選挙では雨で浮動票が延びずに数100票差で涙をのんだ。
 ただ「こんなことではあきらめん」と気持ちを取り直しても、「選挙は立木の就職支援だな」という知人の意外な声に「純粋に社会に役立ちたいだけなのに…」と悲しい思いをし、当選後の利便を図ってもらおうと近づいてくる人々のことも気になった。
  「政治家は地位を守るために納得しないことにも動かなければならない…」という気持ちも芽生え、「塾の延長線上でも世に役立てる」と思っても、無償で選挙応援してくれた仲間への想いとの間で数ヵ月の葛藤が続いた。
 そして校内暴力で荒れる中学や、勉強を通じて自信をつけて行く塾の子どもたちを見るうちに、「恩は必ず何かで返して行こう。このすばらしい教育産業に一生を捧げ、いつか発展途上国に教育の分野で役に立とう」と心に決めた。36歳だった。


(記載内容は2006年11月時点における情報です)