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株式会社ゼネック 代表取締役社長兼CEO 美馬芳彦さん
会社勤めの安定を捨て、38歳での思いがけぬ起業。曲げられぬ信念で目の前の壁を乗り越え続けた。
美馬芳彦さん

 公務員のかたわら田畑を耕し、豊かではないながらも家族を養う父。礼儀にうるさい苦労人の母が「勉強して堅い仕事に就きなさい」と言っても、授業中はよそ見ばかりで成績は後ろから数えた方が早く、人の後について遊ぶ目立たない少年だった。
 中学では機械体操部に入り、勉強はそっちのけで練習に打ち込み、京都府のベスト8に食い込む。しかし高1の国体前、鉄棒の練習中に頭から落ちて3ヵ月の入院生活。病院のベッドで耳にした『田中角栄が中卒として初の総理に』のニュースに、「学がなくても努力で何でも成し遂げられるんや」と感じ入った。
 やがて出席日数不足で留年し、「親に迷惑をかけられない」と工場や飲食店でのアルバイトにいそしむ。高3で京都四条の寿司屋で働き始めると、厳しく接しながらも何くれとなく面倒を見て若手を育て上げる職人の世界がすぐに好きになった。
 大学入学後も地元の寿司屋で働いた。家族のような付き合いで、常に励まし自信を持たせてくれる大将のお陰で小中高と大人しかったのが嘘のように快活になり、掛け合い漫才のような接客が喜ばれて店は連日満席。店を訪れる勤め人が、酒にのまれて仕事を愚痴る様子を見て「あんな大人にはならない」と決意する一方、笑顔で朝から晩まで働き、あっという間に店舗を拡張して豊かに暮らす大将に憧れた。
 ただ、漠然と「将来は自分の店を持つのもいいな」と思い描くものの、両親に「せっかく大学に行ったのだから」と説得されれば反抗する程の意思はなく、給料の良かった中堅ディベロッパーのレジャー施設部門へ就職した。


 レジャー施設の会員権を売り込みに個人宅を訪問しては怒鳴られて門前払い。押しつけの指導法に反発して入社1週間で上司と口論になり、悔し涙を流した。それでも、「辞めたら両親が恥をかく」と歯をくいしばり、休日返上で言われるままに中央市場などにも飛び込む。時には長靴を履いて見込み客の仕事を手伝った。
 ついに3ヵ月目に4件もの契約を決めた。新人賞として数百名の社員の前で表彰され、9ヵ月目には主任への大抜擢。晴れがましい思いで一杯だった。
 ところが入社3年目には売上が低迷した。すぐに降格になり、新入社員と同じ給与しかもらえない。それでも同僚たちのように無責任に投資目的での購入を勧めることはできず、懸命に施設を利用するメリットを語り続けた。すると顧客からの紹介で次々と受注が重なり、「やはり誠実な姿勢を大切にしよう」と強く思った。
 27歳で結婚。ただ、5年目に任されたチームは成績不振を理由にたった4ヵ月で解散となった。「人を駒のように扱わないでくれ」と会社に訴えても取り合ってもらえず憤りを募らせながらも、家族のことを思って辞める決心がつかない4年間。
 そんな32歳のある日、食品卸会社から転職話が舞い込む。収入も保証され、「新規事業立ち上げに力を貸して欲しい」という言葉に心惹かれてすぐに転職を決めた。
 ところが、入社後に与えられたのは惣菜宅配店舗でのマネジメント職。若手社員に反発され、ストレスで2年目には体を壊してしまった。さらに何度会議を重ねても危機感も無く、惰性で仕事をする幹部たちに嫌気が差した。
 そんな時、健康器具販売を始めた友人に「パートナーになってくれ」と誘われる。「やはり俺は営業しかできない」と34歳でその会社に入社した。


 すぐに新しい営業方法を提案し、1ヵ月分の売上を1日でクリアするなど、自分のアイデアで会社が拡大するのが嬉しく、給料も着々と上がっていく。「俺は学がないから経営は無理でも営業で精一杯会社を支えよう!」とやりがいを見いだした。
 3年目には建築関連の派遣会社とフランチャイズ契約を結んで事業を多角化。その統括を任されても法人営業の勝手は分からず、会社に飛び込んでみるものの仕事はもらえない。ひとり試行錯誤の末にテレアポのバイトを雇い、合間を縫って設計図面の読み方を学んで専門的な話も出来るようになった。
 しかし、指導もせずのれん代だけ請求するFC元への不信感が募っていく。ただ、FCを解約し事業を閉鎖すれば社員も解雇せざるを得ず、「何とか独自で事業を続けよう」と思うも、利益を優先する友人と意見が折り合わない。話し合いを続けるうちに顧客や社員に対する考え方の違いが浮き彫りになった。
 派遣事業から撤退を決め、取引先からは「契約期間終了まではお前に任せてあるんやから、きちんとやってくれ」とも言われて、自分の将来が描けぬ日々。3ヵ月後に苦渋の思いで一部の社員に解雇を言い渡したときには、8キロも体重が減っていた。
 「自分が責任を持って残っている技術者の面倒を見よう」。ついに腹を決め、会社を辞めた。幼いふたりの子どもを抱え、「どこかに勤めて欲しい」と懇願する妻を振り切って、技術者の保険加入のために有限会社を設立。「俺には俺のやり方がある。もう自分で死に物狂いで頑張るしかない」。十数年間疑問を感じ続けた勤め人生活に終わりを告げた時、38歳を迎えていた。


(記載内容は2007年1月時点における情報です)