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網田社長海外催事写真
役員になってからの一枚。国内だけでなく、海外での催事にも精力的に飛び回った。

 28歳で、2年間の結婚生活にピリオドを打った。離婚の決断をできないまま悩む日々を過ごし、今まで大きな決断を自分でしてこなかったこと、そしてその難しさを痛感した。31歳で常務に就任。ついに円が下落を始めて外国人向け事業には回復の兆しが見え、新築した日本人向け店舗も客足を伸ばして年間来客数は16万人を数えていた。
 ただ、「父に決められた人生を送ってきた俺が、今後社長としてやっていけるのか?」という不安が日ごとに増した。家業を継いだ友人が銀行に会社を乗っ取られたと聞いて更に心細くもなる。そんななかで、父の言いなりで中途半端に終わっていた海外生活への未練を断ち切りたい思いも募っていた。ついに、わがままを承知で2年間の留学を申し入れると父や役員たちは快く認めてくれて、MBA取得のためにアメリカへ旅立った。
 新生活を始めてみると視野が広がって、アメリカほど学歴に左右されずに働ける日本のよさが見えると同時に、日本人全体が自国を卑下し過ぎているとも感じて、「うちの従業員たちにももっと誇りを持ってもらいたい」と強く思った。カリキュラムの中でアミタの強みや弱みを発見して、従業員を導いていく方向として試してみたいことも沸いてきた。
 ところがしばらくすると、アメリカ同時多発テロやSARSの影響で外国人客が激減して経営に打撃を受け、父や役員からは何度も「早く帰ってこい」というメールが届き始めた。授業後にときには1日12時間も勉強して、半年も早く学位を取得して帰国した。
 「今後は社長のつもりで働いてみろ」といきなり父に言われて復職してみると、年間売上高と同じ借入金がある赤字経営の深刻な事態が飲み込めてくる。家では「最近のプロジェクトは当たらないし、銀行との交渉がこんなに大変になるなんて…」とグチをこぼす父。そして帰国からたった数ヵ月で、まだ60歳の父が何の実績もない息子に後を託してあっさり退いてしまった。しかし、弱冠34歳で代表取締役に就任した重責よりも、「いよいよアメリカで構想していた改革を実行するんだ」という期待に、ただ胸を膨らませていた。


 すぐに、「再生プラン」とあえて名づけて、かつてなく厳しい経営状況であることを包み隠さず社員に報告し、同時にその再建策と将来ビジョンを社内報などで伝えた。一方、銀行との交渉では自慢の再建計画は評価されず、ただ冷たい視線を浴びせられ、融資打ち切りの危機に立たされた。3ヵ月後に迫った5000万円もの返済に頭を抱えた。
 そんなとき、今まで上司として助言をしてくれていた役員が、自分の指示に「わかりました」とだけ答える姿に直面して初めて、社長の決断の重みを思い知って緊張が高まっていった。偉大な経営者の本を読んで気持ちを奮い立たせても、次第に一人では耐え切れなくなり、あるときは父に「たとえ重い病気になっても、とにかく生きていて欲しいんです・・・」と話していた。
 前向きな改革に携わる暇がない苛立ちや自分の決断に自信が持てない不安に胃が痛む1年間の後、ついに自分の再建計画を認めてくれる銀行が現れた。そして、土地売却で資産を圧縮するとともに、雇用維持を目的に経費削減に向けて初の社員の年収カットまで断行した。財務が落ち着くと逃げることなく自ら現場に出向いて、「ボーナスが少ないのももう少しの辛抱だからな」などと、若手に正面から話しかけた。すると、「社長はどういう方向に進みたいのですか?」と投げかけてくれたり、再生プランを自力で前に進めてくれる若手たちが少しずつ増えてきた。今では、現場が中心となって改革を進められる体制が整ったとひしひしと実感している。
 父の決断に頼る人生から、社長になって自ら決断する難しさに直面した。それでも、留学までして自ら退路を断って選んだ道だからこそ、納得して銀行との交渉などの辛い業務も乗り切れた。祖父や父が培ってきた人を大切にする姿勢が実って、親子2代でアミタに勤める社員が増えてきている。パートにまで会社の方向性を理解してもらい、仕事に誇りを持てる従業員になってもらいたい。今後は、子どもの頃から大好きだった現場の声を大事にしながら若手社員と一緒に攻めの経営に転じる。日本人観光客向け事業におけるターゲットやコンセプトの見直しなど、拡大路線に向けて挑戦し続けていく。


(記載内容は2006年4月時点における情報です)